2024年6月9日、市営地下鉄中山駅のピアノ広場では「中山まちピアノ一周年感謝イベント」が開催されていた。
そこに来賓として列席する一人の女性。
ショートヘアが似合う凛とした顔立ちの50代の彼女の膝には一台のスマートフォンがあった。そのスマホはまるでフォトフレームのように膝上で立てられ、画面が正面のピアノに向けられていた。
女性の名前は川口陽子さん。スマホの待ち受け画面には6年前に亡くなった父、芳さんの姿が映し出されていた。
芳さんはかって中山・台村町で【玉寿司】を経営していた。
好景気の波に乗ったこともあれば、不況の荒波に揉まれた時もある。だが、店はいつも近所の人に愛されていた。
やがて芳さんは「北海道から中卒で長靴をはいて上京。手に職を付けたいと寿司屋で修行し、自分の店を構えた。もう俺は一生分働いた」と、引退を決意。45年続けてきた【玉寿司】を畳んだ。
ところが芳さんにとって意外なことが起きる。長女の陽子さんが屋号を引き継いで【Tama cafe】をオープンさせたのだ。今から10年前のことである。
陽子さんは【Tama cafe】を大手チェーンのコーヒー店のようにはしたくなかった。かつての父のお寿司屋さんのように、近所の人たちが立ち寄り、食べるにも飲むにもゆっくり寛ぎ、仕事をしたい人は仕事をし、子連れで来るママたちにも楽しんでもらえる、そんな暖かい居場所を作りたかった。
だから、店の真ん中にピアノを置くことにした。そして、かつて幼い陽子さんへ芳さんから贈られたYAMAHA製の黒いアップライトピアノが鎮座した。
実は【Tama cafe】オープンの動機は、母親が他界し、ひとりぼっちになった父親に毎朝おはようを言いたいという陽子さんの親孝行の意味もあったのだ。
幼い頃は両親が働いてばかりで寂しい時もあった。とにかく働き者の両親で、今思えば、借金をかかえ必死に働くしかなかったのだと思う。
そのため若干の放任主義で育てられた。だが、愛情はいつも感じていた。
休みにはいろいろな所に連れて行ってもらった。そして、なんでもやらせてくれた。
ピアノが欲しいと言ったのは、幼かった娘のただの気まぐれだったかもしれない。ともかく陽子さんは練習嫌い。レッスン前に一度も練習していないこともあった。
だが芳さんが、高価なピアノを買ったことへの後悔を口に出すことは、一度もなかった。
そんな父も6年前にこの世を去り、思い出がつまったピアノも【Tama cafe】を去る日が近づいてきた。
【Tama cafe】は、願っていた通り、町の人たちに愛され、歌とピアノの音色が響く「みんなの居場所」となっていた。だが、より多くの人に親しまれる場となるために、新しいスタイルのシェアカフェにすることを陽子さんは決めたのだ。ピアノを手放すことは辛かったが、それが店と自分自身の成長のために必要なことだと確信していた。
「だけど…このピアノ、どうしようかな。だれかもらってくれないかな」
そう思っていた矢先に、知人から思わぬメッセージが届いた。
「中山駅にストリートピアノを設置したいけど、ピアノを譲り受けるあてが無くなった」
聞けば、某市民活動グループが地元の活性化を願って、人通りの多い地下鉄駅構内に誰でも弾けるピアノを置こうとしているという。
陽子さんは直感した、「もし、このピアノがそこに行くならば、きっと幸せだろう、両親も喜んでくれるだろう」と。
カフェから運び出された黒いアップライトピアノは、2023 年6月、【中山まちピアノ】として生まれ変わった。それは白いピアノになっていた。花嫁衣装のように眩く真っ白で、まさに「お嫁に出した娘」。
白いピアノは中山の町に驚く速さで溶け込み、駅に響く音色に人々は足を止め、優しい笑みをこぼした。その周りには、コロナ禍を乗り越え、自由に音楽を楽しめる感謝と喜びの輪が広がった。
そして、あっという間に1年が経ち、陽子さんは今日、一周年記念の場に来賓として招かれている。
「いつも中山まちピアノを見守り運営して頂きありがとうございます。 沢山の方に愛されて、第2の人生を歩んでいるこのピアノは本当に幸せだと思います」
記念の演奏が始まった。ピアノを贈ってくれた天国の両親に改めて感謝をしているであろう陽子さん。彼女が拍手を送る姿は、 静かに合掌をしているようにも見えた。